■書評 ニールス・ボーアは日本で何を見たか-量子力学の巨人、一九三七年の講演旅行

25991307_1ニールス・ボーアは日本で何を見たか

著者 長島要一
出版社 平凡社
発行 2013 12/20



《日本量子物理学の恩人、ボーア日本へ来日》
1921年3月、通称:ボーア研究所が落成した。その当時コペンハーゲンは、本書によれば現在のシリコンバレーさながら、世界18カ国から68名の外国人研究者が集まっていた。この時期にコペンハーゲンに滞在していた日本人は仁科芳雄を含め7名だった。仁科はコペンハーゲンで5年間主にX線に関しての研究に励みボーアのもと、徐々に量子力学の分野に研究の課題の比重を移していった。その仁科が中心となりニールス・ボーアを日本へ招聘した。

コペンハーゲンから帰国した仁科は、当時の日本の物理学の現状が世界的な物差しでどの辺りに位置しているのか?その点を世界的権威のあるボーアに桜が咲く時期に来日してもらい知りたかったようである。多忙を極めるボーアのスケジュールで日本への来日は延び延びになりその間、何通もの仁科は送り遂に1937年4月7日ボーアがマルガレーテ夫人、次男のハンスと共に来日が実現する。しかし1922年に来日したアインシュタイに比べマスコミ等から注目されなかった。その理由のひとつが、ボーアが来航した船に「奇跡の人」あのヘレン・ケラーも同乗していた。もうひとつは、ボーアの量子論の場合、若手の学者たちが個々に次々と発見をなし、それをボーアがまさしく相補的に統合するかたちで形成されていたため、単独で相対性理論を発表したアインシュタインに比べ英雄の時代は終わっていたここと考えられる。

フレキシブルなスケジュールのなか、ボーアは当時の東京帝国大学、東北帝国大学、京都帝国大学、大阪帝国大学、九州帝国大学で講演を行った。当時九州帝国大学には工学部しか存在していなかったがボーア来日後に理学部が創設されたのでボーアの影響は多大であった。ボーアの講演は、仁科が通訳し仁科の部下の藤岡由夫(後の東京文理大学教授)が大阪毎日新聞と東京日日新聞にその要約を掲載した。講演の前日にはボーアは必ず次男ハンス相手にロール-プレイイングを行う謙虚さが窺える。本書では、講演の内容よりもボーアが日本の伝統文化に触れ何を感じたのか?そのことに重きが置かれているように思われる。しかしながら時間が空いた際に理化学研究所の顔を出すボーアは、日本の若き研究者への恩を忘れていなかった証左であろう。

本書は、コペンハーゲンのニールス・ボーア文書館に保存されている、次男ハンスの旅日誌をもとに綴られていてる。5つの大学の講演途中の際、日本の名所・日本三景の松島、厳島神社そして、富士山etc..を訪れてい
る。マルガレーテ夫人は日本の草花と洋装店に興味を持ち、次男ハンスは「弓術」に興味を持ち、そしてボーアは日本の景観より「能」に興味を持ったようである。ボクはボーアの眼力の凄さにこの点から驚かされた。「能舞台」といえば、あの世のことであり、そして松は影向(ようごう)の象徴であり春日大社の一角にありそこで能の流れが生まれたといわれている。もともと「能」は観客の相手での演芸だけではなく、神様を迎えるための神事だったものであるから、やはり偉大な人物は目の付けどころが違うと実感した次第である。またハンス次男も故スティーブ・ジョブズに多大な影響を与えたといわれる、著オイゲン・ヘイゲルの『弓と禅』をなんらかの形で読んでいたそうであるからボクは偶然とは思えないないのだが..
そして当初スケジュールに無かった「富士山」との邂逅である。「相補性理論」が生物学や心理学に広げられるさまを数々の講演内容の変化で垣間見ることできる。

ボーア来日前、1922年来日したアインシュタインは、講演で「世界の人類は必ず真の平和を求めて、世界の盟主をあげなければならぬ時が来る。・・・我等は日本に感謝する。天が我等人類に日本という国を造っておいてくれたことを」。と述べている。ボーアも原爆開発の将来を憂いチャーチルとルーズベルトに書簡を送ったが拒否された。かくして、広島・長崎に原爆が投下された。原子力に関する国際協力に率先して注力したボーアの書簡は有名であるが、日本では文系、理系という言い方をされるが、ボーアの表現であれば、人文科学と自然科学であろう。よって科学はひとつで、その知を広く共有し、それに尽きることである。ボーア自身ユダヤの血が流れていたためイギリスに亡命し後にアメリカへ渡った。

いずれにせよ、机上の空論ではなく、生の人間がする学問の基礎から最前線までついてを、その当事者が聴衆の前において肉声で接したことは、その後の湯川秀樹や朝永振一郎の飛躍はなかったと思われる。