■書評 『真田丸の謎』-戦国時代を「城」で読み解く
真田丸の謎-戦国時代を「城」で読み解く
著者 千田 嘉博
出版社 NHK出版
発行 2015 11/10
《城は武器だった!!》
「日本一の兵(つわもの)」と称される、勇将・真田幸村(本名:信繁)」の生涯を描くNHK大河ドラマ「真田丸」。信州は皆さんもご存じのようにゆかりの地。今月17日には「信州上田 真田丸 真田丸大河ドラマ館」がOPENし、盛り上がりを見せております。信州では、第一、二話と視聴率30%を獲得。趣味が多様化した昨今、サッカーW杯、NH紅白歌合戦以外では、なかなか30%超えはない、番組です。それだけ地元愛をうかがい知れます。
さて、慶長19年(1614年)10月、徳川幕府との間で緊張が高まる大坂城に、真田信繁率いる軍政が入城しました。壮麗な「赤備え(精強な部隊の象徴)」だったといいます。真田信繁が歴史の表舞台に初めて登場した瞬間です。
戦国最後の名将、日本一の兵、悲劇の武将とさまざまに称される信繁ですが、城郭考古学者の第一人者の著者は、乏しい文字史料と伝説的な説話によってのみ語られてきた感があると言います。そこで、絵図を読み直し、豊臣時代の旧地形を検討、航空写真を判読した上で、現地・現場・現実を重んじ丁寧に踏査したものが本書になります。
大坂冬の陣最大の激戦が行われた「真田丸」。その真田丸は、大坂城の惣構の門の前に位置していたことから、門の出撃を効率よく行い、効果的な防御を可能にした「馬出し」という施設だったとされていました。これは、武田信玄以来の「甲州流軍学」が得意とした丸馬出しでした。ところが、広島市中央図書館が所蔵する絵図「摂津 真田丸」は、それとはまったく異なっていました。遺跡として残る真田丸は、一級資料です。さらには、信繁の武将としての意思や思考を如実に本書を通しても物語ったているのがおわかりいただけるでしょう。
『浅野文庫諸国古城之図』が収録されている「摂津 真田丸」からは、従来より遥かに巨大だった真田丸が判明し、さらには大阪市博物館協会が平成26年3月にまとめた報告書からは、どうして真田丸を大坂城・本丸の「正面」につくらなかったのかをうかがい知る事ができます。皆さんもご存じのように大坂城において南側がウィークポイントだったわけですが、現実には信繁は大坂城の南東隅につくりました。その理由(わけ)はとは、信繁が大坂城に入城した際には、他の武将から信頼を得るような存在ではなく、真田家は豊臣恩顧の大名でもなく、父・昌幸とともに14年近く高野山麓に幽閉されていたわけで・・・端的に言えば、3000の浪人衆の引き連れていたとはいえ、まだ武将としての実力は未知数だったわけです。
それゆえ、「守りの要」となる上野台地の中央部分ではなく、やむなく大坂城平野口に追いやられた築いたというのが著者の見解です。現代に置き換えれば、社内ベンチャー企業=信繁が築いた城とはいえ、本社がリスクを負うことなく、先端的・実験的に事業をやらされたようなものだったわけです。勿論、武将としてのプライドは当然持っていました。
「6棟の櫓」、「武者走り」、「石落とし」、さらには「障子堀(堀の底が、土塁によって格子状に仕切られている堀で敵兵が掘の中を行き来するのを阻害する)」と孤立無縁だった「真田丸」。徳川軍をフェイクし詰将棋のような様相で鉄砲弾・弓矢、立地を活かした戦略を用い総勢20万ともいわれた徳川軍に圧倒的な勝利をおさめたわけです。
そして、ボクも実際に足を運んでみたいのですが、「真田丸」が実際に現在のどこに存在していたのか?大坂の明星学園から心眼寺にかえた一帯といわれております。岸和田市市長によれば、明星学園から大坂城がはっきり肉眼ではっきりとらえることができるそうです。
本書の第四章では、大名ごとの城の特徴、そもそもの城のはじまり、城の構造や空間構成を把握し、その城の生み出した社会や権力構造を読み解いて、信長、それを引き継いだ秀吉、家康の城から近世へと明らかにしていきます。現在、4万ほど確認されている城。「穴城」でおなじみのわが街・小諸城跡、姫路城、人気の熊本城と存在するわけですが、何故?「有岡城」が注目されているのか?秀吉は何のために二城構えたのか?さらには、「人は城、人は石垣、人は堀」と言った武田信玄はどこで誤ったのかetc..城から垣間見る戦国大名も非常に面白いと思います。
詰め込み型の歴史学ではなく、「賢者は歴史に学べ」のようにその人物像=大名の思考・戦略を城から捉えることでビジネスに直結する箇所も多大だと思います。

著者 千田 嘉博
出版社 NHK出版
発行 2015 11/10
《城は武器だった!!》
「日本一の兵(つわもの)」と称される、勇将・真田幸村(本名:信繁)」の生涯を描くNHK大河ドラマ「真田丸」。信州は皆さんもご存じのようにゆかりの地。今月17日には「信州上田 真田丸 真田丸大河ドラマ館」がOPENし、盛り上がりを見せております。信州では、第一、二話と視聴率30%を獲得。趣味が多様化した昨今、サッカーW杯、NH紅白歌合戦以外では、なかなか30%超えはない、番組です。それだけ地元愛をうかがい知れます。
さて、慶長19年(1614年)10月、徳川幕府との間で緊張が高まる大坂城に、真田信繁率いる軍政が入城しました。壮麗な「赤備え(精強な部隊の象徴)」だったといいます。真田信繁が歴史の表舞台に初めて登場した瞬間です。
戦国最後の名将、日本一の兵、悲劇の武将とさまざまに称される信繁ですが、城郭考古学者の第一人者の著者は、乏しい文字史料と伝説的な説話によってのみ語られてきた感があると言います。そこで、絵図を読み直し、豊臣時代の旧地形を検討、航空写真を判読した上で、現地・現場・現実を重んじ丁寧に踏査したものが本書になります。
大坂冬の陣最大の激戦が行われた「真田丸」。その真田丸は、大坂城の惣構の門の前に位置していたことから、門の出撃を効率よく行い、効果的な防御を可能にした「馬出し」という施設だったとされていました。これは、武田信玄以来の「甲州流軍学」が得意とした丸馬出しでした。ところが、広島市中央図書館が所蔵する絵図「摂津 真田丸」は、それとはまったく異なっていました。遺跡として残る真田丸は、一級資料です。さらには、信繁の武将としての意思や思考を如実に本書を通しても物語ったているのがおわかりいただけるでしょう。
『浅野文庫諸国古城之図』が収録されている「摂津 真田丸」からは、従来より遥かに巨大だった真田丸が判明し、さらには大阪市博物館協会が平成26年3月にまとめた報告書からは、どうして真田丸を大坂城・本丸の「正面」につくらなかったのかをうかがい知る事ができます。皆さんもご存じのように大坂城において南側がウィークポイントだったわけですが、現実には信繁は大坂城の南東隅につくりました。その理由(わけ)はとは、信繁が大坂城に入城した際には、他の武将から信頼を得るような存在ではなく、真田家は豊臣恩顧の大名でもなく、父・昌幸とともに14年近く高野山麓に幽閉されていたわけで・・・端的に言えば、3000の浪人衆の引き連れていたとはいえ、まだ武将としての実力は未知数だったわけです。
それゆえ、「守りの要」となる上野台地の中央部分ではなく、やむなく大坂城平野口に追いやられた築いたというのが著者の見解です。現代に置き換えれば、社内ベンチャー企業=信繁が築いた城とはいえ、本社がリスクを負うことなく、先端的・実験的に事業をやらされたようなものだったわけです。勿論、武将としてのプライドは当然持っていました。
「6棟の櫓」、「武者走り」、「石落とし」、さらには「障子堀(堀の底が、土塁によって格子状に仕切られている堀で敵兵が掘の中を行き来するのを阻害する)」と孤立無縁だった「真田丸」。徳川軍をフェイクし詰将棋のような様相で鉄砲弾・弓矢、立地を活かした戦略を用い総勢20万ともいわれた徳川軍に圧倒的な勝利をおさめたわけです。
そして、ボクも実際に足を運んでみたいのですが、「真田丸」が実際に現在のどこに存在していたのか?大坂の明星学園から心眼寺にかえた一帯といわれております。岸和田市市長によれば、明星学園から大坂城がはっきり肉眼ではっきりとらえることができるそうです。
本書の第四章では、大名ごとの城の特徴、そもそもの城のはじまり、城の構造や空間構成を把握し、その城の生み出した社会や権力構造を読み解いて、信長、それを引き継いだ秀吉、家康の城から近世へと明らかにしていきます。現在、4万ほど確認されている城。「穴城」でおなじみのわが街・小諸城跡、姫路城、人気の熊本城と存在するわけですが、何故?「有岡城」が注目されているのか?秀吉は何のために二城構えたのか?さらには、「人は城、人は石垣、人は堀」と言った武田信玄はどこで誤ったのかetc..城から垣間見る戦国大名も非常に面白いと思います。
詰め込み型の歴史学ではなく、「賢者は歴史に学べ」のようにその人物像=大名の思考・戦略を城から捉えることでビジネスに直結する箇所も多大だと思います。